1475年、カプレーゼに生まれた。まず画家ギルランダイオのもとで絵画を学び、その後、ロレンツォ・デ・メディチの後援を受けて彫刻を学んだ。絵を描くことと、立体を作ること。その両方が、若い頃からの仕事につながっている。
1496年にローマへ行き、サン・ピエトロのために彫刻《ピエタ》を制作した。1501年にはフィレンツェへ戻る。同じ年の8月に《ダヴィデ》の契約に署名し、1504年に完成させた。
1505年、教皇ユリウス2世の墓を飾る彫刻の仕事でローマへ招かれた。その後に取り組んだのが、1508–1512年のシスティーナ礼拝堂天井画である。墓の制作と天井の絵は、同じ依頼ではない。
自分で描くだけでなく、別の画家へ下絵を渡すこともあった。画家セバスティアーノ・デル・ピオンボが1517–1519年に描いた《ラザロの復活》では、主要人物の一部のために素描を提供している。素描とは、線や陰影で姿や形を描いたもの。絵の構想に関わった人と、絵の具で仕上げた人が異なる例である。
1520年代には、建築の仕事にも取り組んだ。ラウレンツィアーナ図書館は、その一つである。図書館の公式案内によると、彼の設計に基づく建設は1524年に始まり、ローマへ去る1534年まで続いた。天井画と《最後の審判》の間も、絵画以外の制作を進めていた。
1532年には、ローマの貴族トンマーゾ・デ・カヴァリエーリと出会った。彼に贈ったのは、丁寧に仕上げた素描と詩である。絵を描くことは、大きな壁画の準備だけでなく、特定の相手に贈る作品を作ることでもあった。
1534年、フィレンツェからローマへ移った。1536–1541年には《最後の審判》を描く。天井画から年月を隔てた仕事であり、二つを同じ時期に描いたわけではない。 このローマ時代には、詩人ヴィットリア・コロンナとも親交を結び、素描や詩を贈っている。
続いてパオリーナ礼拝堂に《聖パウロの回心》と《聖ペテロの磔刑》を描き、1550年にそこでの制作を終えた。晩年には建築にも携わり、サン・ピエトロ大聖堂のドームを設計した。本人が建設に関わったのは、ドームを支える部分までだった。
1564年2月18日、ローマで亡くなった。遺体はその後フィレンツェへ移され、サンタ・クローチェ聖堂に埋葬された。設計したドームは、彼の死後、デッラ・ポルタとフォンターナによって完成へ導かれる。亡くなった場所と墓のある場所、設計した人と完成させた人を、それぞれ分けて覚えておきたい。
出典:ナショナル・ギャラリー(ロンドン)ミケランジェロ略歴(2026-09-05 確認)
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