グスタフ・クリムトは1862年、ウィーン郊外のバウムガルテンに生まれた。父は金工の職人で、クリムトは弟エルンストとともにウィーンの工芸美術学校で学んだ。絵画だけでなく、建築を飾るデザインや工芸に近い考え方も身につけた。
若い頃は弟と友人フランツ・マッチュと「芸術家商会」を組み、劇場や公共建築の天井画を制作した。初期作品は歴史上の様式を正確に使い分けるもので、のちの金色の絵とは見た目が大きく違う。
1897年、保守的な展覧会制度を離れた画家や建築家たちとウィーン分離派を創設し、初代会長となった。分離派は絵画、彫刻、建築、工芸を上下に分けず、海外の新しい芸術も紹介しようとした。
ウィーン大学のための「学部絵画」は、裸体や暗い寓意表現を理由に激しい論争を招いた。クリムトは注文を返上し、その後は国家の大規模注文から距離を置いて、肖像画、寓意画、風景画を中心に制作した。
1900年代には金箔、銀、幾何学模様を油彩と組み合わせる「黄金様式」を発展させた。1903年に訪れたラヴェンナのビザンティン・モザイクも重要な刺激となり、《ユディトI》《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像I》《接吻》へつながった。
同じ時期、夏をアッター湖周辺で過ごし、正方形に近い画面へ湖、庭、森、並木道を描いた。人物を置かない風景でも、葉や幹を細かな色面として組み、自然と装飾の境目を曖昧にした。
クリムトの人物画、とくに女性像は美しさだけでなく、欲望、生、死、妊娠、老いを同じ画面に置く。モデルや依頼主を単なる模様として見るのではなく、当時のウィーンで女性の肖像が社会的な役割を持ったことにも注意したい。
1918年、ウィーンで55歳で死去した。《アダムとイヴ》など複数の作品が未完成で残った。歴史画の訓練から出発し、金属と絵具、人体と模様を結びつけた仕事は、ウィーン世紀末美術を象徴している。
夏にはアッター湖周辺で、人物を置かない正方形の風景画を多く描いた。
出典:ベルヴェデーレ美術館 クリムト略歴 / レオポルド美術館 クリムト・コレクション / ベルヴェデーレ美術館 クリムト略年譜 / ベルヴェデーレ美術館 クリムトとイタリア(2026-09-11 確認)
ウィーン分離派、黄金様式、風景画を分けて説明。『アール・ヌーヴォー』だけで一括せず、ウィーン・ユーゲントシュティールと象徴主義の重なりとして扱う。
間違いを見つけたら、教えてください →アフィリエイトリンク|このリンクから購入されると、運営者に報酬が入ることがあります。
この画家について本で読む
もっと知りたいクリムト 改訂版
千足 伸行 著 / 東京美術
黄金様式の人物画だけでなく、風景画や装飾美術も含め、クリムトの多面的な仕事を生涯に沿ってたどる入門書です。
楽天ブックスで見る →